宮古島で出会った天職、仕事が結ぶ縁と
家族の絆があるからこその感謝の移住生活
佐々木祐一(ささきゆういち)さん
職業:東平安名崎観光人力車 灯八(とうや)(観光人力車業)
福井県出身(移住歴:22年)
家族構成:現在夫婦二人暮らし
迷いは全くなし!即決!即行!宮古島へ移住と天職との出会い
宮古島で暮らしたい、と決めたのは平成8年でした。宮古島は気の流れが良いと言う船井幸雄先生の記事を読み、それまで「宮古島」という名前すら知らなかったのに、移住を決めてしまいました。夏休みに家族で下見と、家探しに来て、4か月後には引っ越してきました。
自分はどちらかというと営業向きなので、訪れて魅せられた東平安名崎で、観光の仕事をいずれしたいと夫婦で話していましたが、不慣れな土地でもありこの地の水に慣れるまでと、農業や土木の仕事もしました。
慣れない仕事で体もボロボロだし、子どもにはお金がますますかかるし、不安も大きくなってきましたが、女房に「あなたに合った仕事が絶対見つかるから焦らなくていいんじゃない?」って言われ、気が楽になりました。
そんな時に出会ったのが、たまたま読んだ機内誌の人力車の記事です。そろそろ自分に向いた、ワクワク出来る仕事をしたいと、さっそく岐阜県高山市で3か月間の住み込み修業をして開業したのはちょうど40歳でした。
とは言え旧城辺町時代の役場の方々の、温かい協力がなかったらどうなっていたかわかりませんでした。
お客様を人力車に乗せてガイドし、またその頃習い始めた三線演奏を加えたところ、お客様に受けて、涙を流し感動されたり、寒い私のギャグに笑い転げて頂いたりと、最初は見る方によっては、ミスマッチ感もあったと思いますが、私にとってのまさに天職だと思いました。
思い通りにならぬ島の暮らしと子育て、だからこその「今」
親離れ子離れ、と言うのが、離島の場合は早いですよね。当時小学生だった子どもたちは島から巣立ち、今は夫婦二人暮らしです。いずれはそうなる、と移住当初から覚悟はしていました。
離島での子育ては、小中学校時代は先生と生徒、地域の距離も近く、まるで大家族のような学校生活は子供にも大人にもとても良い環境でした。それぞれの個性を伸ばしてもらえたのも少人数の学校ならではかもしれません。高校時代は、学校まではバスの便も悪く、親の送迎が必須でしたが、往復約1時間半以上の道のりに親が根をあげてしまい、子どもたちは市内で下宿生活を送ることになりました。
そのせいか兄弟の絆は強く、お互いに助け合って、将来の道を切り開いていってくれました。一番末っ子が卒業する時に、「宮古島に移住してくれてありがとう。」って言ってくれたのが心に残っています。
生まれ故郷を離れたからこそ、我が家は5人で、「チーム佐々木」なんですよね。
何かあっても、家に帰れば家族がいて、その食卓に福井だったり、女房の故郷の岐阜だったりの味が並ぶと、家に故郷がある、家族がいる、って感じられる、それが支えでしたね。
今は、2人だからこそ楽しもうと、若いころの趣味だったオートバイもが復活して、休みの日はツーリングに出かけています。朝起きて、大好きな音楽を聴きながら、窓の外に広がるサトウキビ畑を眺めながら夫婦でコーヒーを飲む、これが今一番の楽しみなんです。
移住してから出来た沖縄の知人
皆、優しく温かい!!島の人からは「許す」という人生において、一番大切なことを見せてもらい
「結」「分け合う」人間本来の姿を学ばせてもらっています。
移住の満足度
80点。
だけどこの20年で宮古島も大きく変わりました。
時代の流れには贖えないのかもしれないけれど、
あまり都会の色に染まって欲しくないなあ・・・
県内各地の先輩移住者さんにインタビューしました!アーカイブはこちら↓