
先輩移住者インタビュー
岡本 光代(おかもと みつよ)さん職業:会社員(元沖縄県企画部地域・離島課 地域づくり応援員)
宮崎県出身(移住年:2013年)
家族構成:独身
沖縄で再始動する
地域おこしの新たなチャレンジ
沖縄県企画部地域・離島課は、その名の通り本島北部や離島部などを現地の自治体とともに活性化していく、地域を応援する部署です。そんな地域・離島課には、「地域づくり応援員」として県外からの移住者が2名活躍しています。

そのうちのお一人である岡本さんは、生まれも育ちも宮崎県宮崎市。高校を卒業した後の就職先も宮崎市で、ずっと宮崎で暮らしていたのでいつかは外の土地を知りたいと、10年以上働いた会社を辞め、高校時代からの知り合いを頼ってしばらくのんびりするつもりで沖縄県にやってきたそうです。しばらくしてアルバイトを始めたそうですがアルバイトだけでは生計も立てられない、ということでみつけたのが宜野湾市で調理機器卸売業者の事務職の仕事。仕事を通して沖縄の伝統行事の内容や時期、沖縄独特の土地の名前や苗字なども徐々に覚えていき、気づけば6年以上たっていたそうです。
最初はびっくりした夏のエイサーの夜中まで続く練習の音の大きさや、旧盆の道ジュネーの音にも随分なれ、沖縄を満喫した生活を送っていた岡本さんですが、2008年頃に宮崎にいる両親から、年齢や体調のこともあるため帰ってきて欲しいという強い思いを受け、後ろ髪を惹かれながらも宮崎に戻ることになりました。そこから今のお仕事に至るまでの経緯を伺ってみました。
宮崎に帰ってからのお仕事を教えて下さい

当時は景気も悪かったので資格を取ろうと色々と動いたりもしたのですが、宮崎市で「地域コーディネーター」の求人が出ていたのを地域の人に勧められ、面白そうだと思い応募したら採用されました。
「地域コーディネーター」というのは宮崎市が地域づくりのために雇用している、3年契約の嘱託職員で、地域自治区と行政をうまくつないでいく役割を期待されています。本来は自分が住んでいる地域を担当するものなのですが、私はなぜか隣の地域の担当になって、最初はあまり愛着もわきませんでした(笑)。
とくに地域自治区内部の自治会を取りまとめる協議会の、会長さんが非常に厳しい方で、1年目は怒られっぱなしだったので大変だったのですが、地道に各自治会に顔を出し続けたり、幾つものまちづくり推進委員会での部会の取りまとめをやったりしているうちに、2年目からは信頼されるようになって、「あんたが言うならやってもいいよ」と言ってもらえるようになりました。
そこからまた沖縄にくることになったのは?
元々宮崎の地域コーディネーターが3年任期だったので、常に次を考えていたというのはありました。再チャレンジ制度があり、延長も出来るのですが、3年の活動の中で自分の足りないことを考え、発信力を付けたいなと。また沖縄に対する未練もある中で、たまたま沖縄県での地域おこし協力隊募集(=地域づくり応援員)が目に止まり、業務内容が「沖縄×地域おこし×発信」という自分が気になる要素が3つも入ったものだったのですぐ応募しました。書類審査と沖縄での面接を経て採用されたのですが、宮崎でのコーディネーター経験と、沖縄の土地勘を評価してもらったんだと思います。でももしかしたら、可哀想に見えたのかもしれません(笑)。

現在の仕事は、主に地域で活躍している人・団体の発掘と広報、SNSでの地域づくり関係者のフォロー、研修会の企画・運営などです。
とくに地域で活躍しているリーダー候補の掘り起こしについては、当初はまったく人脈もなかったので、新聞・雑誌などを見て気になる人をピックアップして、アポをなんとかとって取材したり、気になるお祭りに顔を出してスタッフの人に声をかけてみたり。そういうことを積み重ねていって、少しずつ色んな人と繋がるようになっていきました。
取材の中でさまざまな人と知り合い、お友達もたくさん出来ましたが、一方で全員と仲良くなるというのは難しいので、そのあたりは割り切りも大切だったかなと思います。
3年の仕事の中で非常に手応えも感じてはいますが、今の仕事は地域にどっぷり浸かるものではなく、広く浅く、というお仕事で、個人的には市町村に入っている協力隊の人たちのようにもう少しじっくり入りたいので、今後県内に残ってチャレンジはしていきたいです。その意味でも、県内で色々と知り合いが出来たのは大きいかなと思っています。
■移住してから出来た沖縄の知人
200人くらい
地域リーダーを取材する中で色々な人と出会う機会も多かったので、結構知り合いは出来たなあという印象です
■移住の満足度
85点100%の満足ではないからですね。マイナス15%は、物価の高さと湿度の高さ。こればかりはしょうがないですね(笑)