
先輩移住者インタビュー
倉田 まゆみ(くらた まゆみ)さん職業:株式会社シー・エス・ジャパン 代表取締役
東京都出身(移住年:1988年)
家族構成:独身
エンジニアから海の仕事、そして起業へ
独立独歩で、離島への移住から定住を実現
東京出身の倉田さんは、大学卒業後にシステムエンジニアとして多忙な日々を送っていました。追われるように仕事をする中、やっと得た休日に計画した旅行先は「会社から一番遠くて、でももし何かあったときには戻ってこられる場所」。この条件を満たす場所として選んだのが石垣島だったそうです。
石垣島に到着すると、以前住みたいと思っていた南米・メキシコで見つけた花が、ここでも咲いていることに気が付きます。谷川健一氏の小説「海の群星」や、幼いころから好きだった伝説や民俗学が、自然豊かな石垣島の情景とも重なって、20代半ばで移住を決意しました。
インターネットも普及していなかった1980年代半ば、女性単身で離島に移り住む人はほとんどいませんでした。手探り状態から生計を立てるというハードルを越え、2014年にはBPO(Business Process Outsourcing)センターを起業されています。移住後の生活をどのように過ごされてきたのか、また「移住」についてどのような想いを抱いていらっしゃるのか、お話を伺いました。
移住してから起業するまで、どのように過ごされていましたか?

移住した当初は、ホテルのダイビングショップでインストラクターをしていました。その間に、船舶の免許を取ったりもしました。縁あって与那国でダイビングガイドとして働く機会もありました。最も荒く険しいと言われる与那国島の海にもまれ鍛えられることで、自分に対する自信を得ることができました。
石垣島に戻って新たなダイビングショップに勤めてからは、ショップの経営面にも携わるようになり、事業戦略の立て方や経営の基礎を学んでいくことができたように思います。中でも、一度に修学旅行生180人ほどをダイビングさせるという企画を、複数の事業者と連携して実施した経験はとても貴重なものでした。安全対策を含めて綿密な調整が必要でしたが、これを契機に数年にわたって観光自然体験のプログラムが実施されていったので、海に携わる事業者として、ひとつ「やり切った」経験だったと感じています。
海と正面から向き合うことが、年齢的に厳しく感じるようになってからは、少し違う仕事がしてみたいと考えるようになりました。折しも石垣市がコールセンターの大手企業を誘致していたタイミングでしたので、管理職として運よく転職することができました。
その後、親の介護で一時的に東京へ戻ったり、石垣島へ帰ってきて別の企業に再就職したりしていたのですが、「頼みたい仕事があるから、法人を立ち上げてくれないか」というお話をいただき、起業することになりました。実績のない女性がひとりでオフィス物件を借りるということすら大変でしたが、今では10名ほどのスタッフと一緒に仕事をしています。
移住してよかったと思うこと、印象に残ることを教えてください
石垣島に引っ越してからのことなんですが、沖縄で放送されていたテレビ番組の、ある映像に心を奪われました。台風で大破した家を目の前にしてタバコをふかしながら佇むおじいさんに、記者が「大変でしたね」と声を掛けたんです。そしたら、そのおじいさんが笑顔で「しっかたないさぁ」と煙を吹いて、台風一過の青空を見上げていました。その映像から誰かに責任を押し付けない、自分のタイミングで、自分の力でやるしかないという、仙人のような自立した価値観感じて、ものすごく感動しました。「だれの責任なのか」という理屈を考える局面が多い東京と比べて、石垣島の生活にある責任を押し付けない価値観やライフスタイルが、私自身にあっていたんだと思います。
移住に対する考え方ですが、「移住先」が必ずしも「定住先」にならなくてもいいと思っています。移住した場所での暮らしや価値観が、自分のスタイルにあっているかどうかを、ゆっくり時間をかけて考えることが重要なのではないでしょうか。移住してもなにかが違っていたら、定住せずに別の場所をまた考えてもいいと思います。なので、よく「移住失敗」という言葉を耳にしますが、それぞれ理由があるわけだから、なにが起きても「失敗」ではないと思います。「定住することを前提に移住する」、などと気張る必要性もないのではと感じます。それくらい柔軟に「移住」という選択を捉えるのもよいのではないでしょうか。
■移住してから出来た沖縄の知人
約100人。本当に数えきれないほどいるので、ざっくりとした数字しか言えません。
■移住の満足度
100点「いつ死んでもいい」と言うくらい満足しているので。石垣島で過ごした時間、出会ったもの、周りにいてくれた人、すべてのおかげです。