
先輩移住者インタビュー
泉本 理恵子(イズモト リエコ)さん職業:学童的寺子屋 兼 基礎学習塾「わらばあはうす」 運営
和歌山県橋本市出身(移住年:2015年)
家族構成:ワンコ1匹、ニャンコ3匹、パートナー1人
自分を支えてくれた沖縄への恩返し
地域の子どもたちが、未来にはばたくために
生まれも育ちも和歌山県の泉本さん。大学生のころにお母様から「大学に行くからには、資格は取っておきなさい。」と言われて、教職の資格を取りました。当初は、本気で先生になりたいとは思っていなかったそうです。が、教育実習での子ども達との出会いで心を動かされ、最終日は号泣してしまったそう。教師という仕事の楽しさを感じて、教師になろうと決意。そこから採用試験までの2か月間、猛勉強をして、晴れて大阪府の中学校の国語の教師となりました。
勤務していたのは和歌山県に近い大阪府南部の中学校。女性ということで舐められないようにと、無理して威厳あるように見せようとするなど、若い時にはかなりご苦労をされたそうです。特に赴任2校目がかなり荒れた学校だったのですが、そこで自分のクラスの子供が、ある男性教師の都合で行き過ぎた指導を受け、本人にも家族にも心の傷が残る現場を体験したことで、泉本さんは教員としての自分の信念を固めます。暴力・腕力・権力で子供を抑えつけるのではなく、子供と向き合い、常に話しかけ、伝え続け、対話をする指導を続けていくこと。そうすれば子どもたちはきっと理解してくれる。その想いで教育に当たったことで、やんちゃな生徒が卒業していくときには泣きながら「ありがとう」と言ってくれるようになっていき、自分のやり方が間違っていなかったんだなと思ったそうです。一方で教育現場は常にハード。子どもとの関係だけでなく、学校内での人間関係に心を悩ませながら、日々朝から晩まで休みなく働く毎日だった泉本さん。身も心も限界を超えた生活を続ける中、大好きな沖縄で、いつか地域の子供達を教える寺子屋を開きながら、ゆっくり人間らしい暮らしをしたいという夢を持つようになりました。そんな泉本さんが宜野座と接点を持つようになったのは、あの高校の活躍がきっかけでした。
運命的な宜野座との出会い、そして最も生き生きする暮らしを求めて移住へ。

宜野座との接点ができたのは、2001年です。当時在籍していた中学校で、野球部の顧問を誰も引き受けず、このままでは廃部になりそうでした。そこで「それなら私がやります!」と野球部の顧問を引き受けてしまったのですが…実際は指導のやり方がわからず、どう指導したものかと悩んでいました。ちょうどそのころ宜野座高校が21世紀枠で甲子園に初出場し、長女が大ファンになったのがきっかけで、宜野座村のHPの掲示板に応援メッセージを書き込んでいたところ、その掲示板の管理人をしていた役場職員さんが、中学生の野球部のコーチをしているということが分かりました。そこでイチかバチかメールで野球の指導方法や声のかけ方を教えてほしいとお願いしたら快諾してくれたんです。その後メールのやり取りから実際に宜野座に行くようになったり、その方が大阪出張の際に寄ってくれたりと交流が始まりました。私が宜野座に行くたびに当時の村長さんや役場関係の方、そして地域の方とも接点ができるようになり、いつもとても温かく迎えていただきました。
最終的に沖縄に移住しようと決意したのは、両親が亡くなった2003年ごろ。一番の理解者であり、支えだった母親が交通事故で突然いなくなり、母の死をきっかけに自分の人生について見つめ直すことになりました。両親の介護をする必要もなくなったことから、「たった一度の人生、自分の生きたいように生きよう。沖縄に移住して、夢を実現させよう。」と思うようになったんです。大切な娘や孫を置いてひとり沖縄に行っていいのか?と、いうことはずいぶん迷いました。でも関西にいても毎日一緒にいるわけでもない、だとしたら自分が一番生き生きしていられる場所で暮らしたい、やってみたいことを実現しようと、最初から寺子屋を開くつもりで宜野座村に家を建てました。
ただ移住する前に、今までハードな仕事ばかりで自分の子供に構ってこられなかったので、せめて次女の社会人デビューはサポートしようと、次女の就職と同時に仕事を辞め、2年間は大阪で次女と二人暮らしをしながらいろいろとサポートして、彼女が仕事に慣れてきたタイミングで沖縄に移住してきました。
寺子屋を通じて築いていった地域の子どもたちとの絆

自分の夢だった「寺子屋教室」を宜野座村にオープンさせたものの、地域とつながりのない中で本当に子ども達が集まるかは不安でした。なので最初は公民館、教育委員会、小学校とあいさつに回ったところ、小学校の校長先生が「必要だと思う親も居るから、チラシ作って持ってきてくれたら、配りますよ。」と言ってくれたんです。当初小学生は6人定員でやろうと思っていたのですが、7月にオープンしたらいきなり7人も集まり、教室の外に立て看板出しただけでも中学生が来てくれたり、口コミで友達を連れてきてくれたりと、どんどん増えていきました。稼ぎたいわけではないので低料金でやっているというのも大きいですが、現状は、個人年金と月謝でなんとか生活できるだけは賄えていますよ。
私自身、一番しんどかった時に沖縄に癒やされ、沖縄からパワーをもらっていたので、沖縄に恩返ししたいという想いが強かったし、暮らさせてもらっている以上、地域に貢献したいという想いもあります。なので最近は地域活動にも積極的に関わっていて、小中学校での読み聞かせや、公民館での受験生対策講座の国語の先生もやっています。婦人会にも入らせてもらったり、村民会議という村づくり提言会のメンバーにもなったり。頼まれると断れない性格なので、なんでも引き受けてしまっているというのもあるかもしれません(笑)
読み聞かせをしているから、地域の大人よりも子供たちのほうが私のことをよく知ってくれていて、今は近所の子供たちの遊び場みたいにもなっています。多い時には15名くらいが家の周りで遊んでいますよ。
沖縄に来て苦労したことは、今のところほとんどないですね。驚いたことは自然。雲の近さや年中花が咲いている事。あとは伝統芸能が盛んなことですね。小学校でも学習発表会で地域の伝統芸能をやるなど、地域の文化を本当に大事にしようとしていることに驚きました。
■移住してから出来た沖縄の知人
もう数えられないですね。地域の大人だけじゃなくて、子ども達もいっぱいいるから。
■移住の満足度
200点!沖縄に移住してきたおかげで、大切なパートナーにも出会いました。仕事も順調で、毎日楽しく充実した生活をしているので、移住してきて心の底から良かったと思っています。ただのんびり暮らしているだけじゃなく、自分も、少しは地域に貢献できているという思いも強いので、この点数です。